戦国グッズ
蒲生氏郷マグカップ
サイズ: 12.0cm×8.3cm×h7.5cm
重量: 260g
容量: 260cc
価格: 1,200円(税込)
蒲生 氏郷1556-1595(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。近江日野城主蒲生賢秀の嫡男。初名は賦秀(ますひで)または教秀(のりひで)。またキリシタン大名で洗礼名はレオン(或いはレオ)。子に蒲生秀行。このほか長男蒲生氏俊がいるが、廃嫡したとされる。
●豊臣政権時代
その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えた。清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀伊攻め、天正15年(1587年)の九州征伐や1590年の小田原征伐などに従軍する。その間、天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。なお、松ヶ島時代(天正13年(1585年)頃)に賦秀から氏郷と名乗りを改めているが、これは当時の実力者だった羽柴"秀"吉の名乗りの一字を下に置く『賦秀』という名が不遜であろうという気配りからであった。一方、天正15年(1587年)7月には、秀吉から「羽柴」の姓を賜っている。
会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、甲州流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。7層の天守閣(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ鶴ヶ城と名付けられた。また、築城と同時に城下町の開発も実施した。具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。
以降は、会津の旧領主である伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆(なお、この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実の乱を制圧。翌文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋へと出陣している。この陣中にて体調を崩し、文禄4年(1595年)2月7日、京都の伏見蒲生屋敷において死去。享年40。
蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された(会津には上杉景勝が入った)。
