戦国グッズ
立花宗茂マグカップ
品番: 029
サイズ: 12.0cm×8.3cm×h7.5cm
重量: 260g
容量: 260cc
価格: 1,200円(税込)
立花 宗茂(たちばな むねしげ、永禄10年11月18日(1567年12月18日)? - 寛永19年11月25日(1643年1月15日))は安土桃山時代の武将。大友氏の一族。江戸時代前期の大名。陸奥棚倉藩主。のちに筑後柳河藩の初代藩主。
宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えている。本項では便宜を以て宗茂と表記を統一する。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。家中でも重臣の1人・薦野増時(立花賢賀)は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、「勝敗に拘らず」と薦野増時を留守に残し西軍に参加。そして石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出する。
その後、毛利元康、毛利秀包(小早川秀包)、宗義智、筑紫広門と共に東軍の京極高次が守る大津城を攻めた、この時、宗茂は塹壕を掘り起こして、ここより兵士に鉄砲射撃を行わせた、そして養父道雪の発案した「早込」(「早合」ともいう。一発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫)で、立花勢は他家の鉄砲隊の3倍速で銃撃し、一番乗りを果たしたという。しかし、9月15日の関ヶ原本戦には大津城を攻めていたために参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返した。
大坂城に退いた後、宗茂は大坂城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが、輝元はその進言を容れずに徳川家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に引き揚げた。なお、柳川に引き上げる時に実父・高橋紹運の仇である島津義弘と同行した。関ヶ原での戦で兵の殆どを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たちの進言を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、むしろ島津軍の護衛を申し出でて島津義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついた。
しかしその後、加藤清正や鍋島直茂、黒田孝高(如水)が柳川を攻める形勢となった。10月14日、鍋島勢3万2千は二手に分かれて佐賀を進発。これに対し、立花勢は迎撃のために出陣するが、家康への恭順を示すため宗茂は城に残った。立花勢1万3千のうち、城を出て八院方面へ出陣したのは家老の小野鎮幸を総大将とする約3千人である。鍋島軍は、10月16日には筑後川を渡河し立花方の海津城を落城させ、続いて19日朝には城島城を攻略、翌20日には江上八院8で立花勢本隊と激突した。立花勢の安東久照、石松政之らは次々と鍋島勢十二段の軍陣の中へ突入し、立花統次はその九段までも進んで奮戦したといわれている。しかし、たちまち反撃を受け、救援出撃の第2陣を指揮していた立花鎮実と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎?17才)、新田鎮実(平右衛門、掃部助)、第3陣の立花統次と若い十時惟久(新五郎?16才)が次々と討ち取られた。総大将の小野鎮幸の部隊も鍋島勢の包囲を受け、小野隊は供回りが十四、五人になるまで討ち取られた。小野自身も銃創と矢傷を負い、戦死寸前であったが、立花成家が城兵三百を率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した。成家も鉄砲で頬を撃たれて落馬したが、味方に担がれて難を脱している。
剛勇を以ってなる立花勢は尚も柳川城へ篭城する構えを示したため、鍋島勢はそのまま柳川城を乗りつぶそうとしたが、鍋島直茂がこれを抑え、黒田如水、加藤清正が説得に動き、立花宗茂は降伏開城した。
島津義弘は国許へ帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送った。しかし、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日が過ぎた後だったという。
