戦国グッズ
大谷吉継マグカップ
品番: 050
サイズ: 12.0cm×8.3cm×h7.5cm
重量: 260g
容量: 260cc
価格: 1,200円(税込)
大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。越前敦賀城主。名前については「吉隆」とも1。 "業病"(注:当時の認識)を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名である
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり、徳川邸襲撃の風聞が立った際には加藤清正や福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ、家康を警護している。その後前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱や、宇喜多秀家家中の紛争を調停している。
慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い、上杉討伐軍を起こした。家康とも懇意であった吉継は討伐軍に参加するために領国の敦賀を立ち、途中で失脚していた五奉行の石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために、三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたのであるが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り、熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子たちとともに三成の下に馳せ参じ、西軍に与した(※異説有り、後述)。
こうして西軍首脳の一人となった吉継は、敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため、越前・加賀における諸大名の調略を行なった。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い。実際に前田軍と戦ったのは丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して、軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われたという)。
9月、吉継は三成の要請を受けて、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、戸田勝成、赤座直保らの諸将を率いて美濃に進出する。そして9月15日、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。このとき、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田・平塚為広の諸隊、あわせて5700人で布陣する。そして吉継は輿に乗って軍を指揮し、東軍の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に奮戦した(大谷勢全軍の指揮は身体の不自由な吉継に代わり平塚為広が揮ったとの説あり)。
その後、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5000人が裏切り大谷隊に突撃したが、予め小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し、2、3回と繰り返し山へ追い返したという3。 その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が戦死していることからも伺える。
しかし、吉継が追撃を仕掛けたところへ小早川秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・赤座・小川・朽木の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻撃を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継も自害した。享年42。吉継の敗北は戦場のパワーバランスを一変させ、西軍の諸隊を動揺させた。
吉継は業病(ハンセン病と云われている)故に、輿に乗って指揮したと云われるが、関ヶ原に「西軍が先に着陣」した時に秀秋の裏切りを見抜いて居て史実の小早川隊の進軍経路の要所に「馬防柵」を築いたと云われる。
自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはなかった。
辞世の句は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」で、これは戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている。
