戦国グッズ
真田幸村マグカップ
品番: 035
サイズ: 12.0cm×8.3cm×h7.5cm
重量: 260g
容量: nakamizomasashi
価格: 1,200円(税込)
真田 信繁 (さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。永禄10年(1567年)とされる生年は没年の49歳から逆算されたもので、月日は不明。
武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫。大坂の役で活躍。特に大坂夏の陣では、寡兵を持って徳川本陣まで攻め込み、徳川家康を後一歩のところまで追いつめたとされる。江戸期以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて大敵徳川に挑む天才軍師真田幸村(さなだ ゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになった。
秀吉死後の慶長5年(1600年)に、五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)で徳川方の東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる2。
徳川方の東軍は東海道と中山道を分かれて進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠軍と上田城にて迎え撃った(第二次上田合戦)。寡兵の真田勢にてこずった秀忠軍は上田城攻略を諦めて去ったが、結果として主戦場となった美濃関ヶ原での決戦に間に合わなかった。
しかし三成率いる西軍は、9月15日に秀忠軍ぬきの徳川方に敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまった(本来なら高野山配流であったが、信繁が竹林院を伴っていたため、女人禁制のかどで九度山に変わったと言われている)。
蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去。慶長17年(1612年)には信繁は出家、伝心月叟と名乗った。
