戦国グッズ

加藤清正マグカップ
加藤清正マグカップ 加藤清正マグカップ

加藤清正マグカップ

品番: 036
サイズ: 12.0cm×8.3cm×h7.5cm
重量: 260g
容量: 260cc
価格: 1,200円(税込)

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katou.jpg 加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。肥後熊本藩初代藩主。豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦し武功を挙げ肥後北部を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後熊本藩主となった。「賤ヶ岳七本槍」の一人である。主君秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くしたことが有名。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。

そして慶長4年(1599年)3月に前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら6将と共に石田三成暗殺未遂事件を起こした。この計画が失敗すると、さらに家康への接近を強めた。

慶長5年(1600年)に三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いでは九州に留まり、黒田如水と共に家康ら東軍に協力して行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破った。戦後の論功行賞で、肥後の行長旧領を与えられ52万石の大名となる。なお、行長が居城とした宇土城は慶長17年(1612年)に破却されている。

慶長10年(1605年)、従五位上、侍従・肥後守に叙任される。慶長15年(1610年)、徳川氏による尾張・名古屋城の普請に協力した。慶長16年(1611年)3月には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中の船内で発病し、6月24日に熊本で死去した。享年50(満49歳没)。

墓所は熊本市花園の発星山本妙寺の浄池廟、また山形県鶴岡市丸岡の金峰山天澤寺。さらに東京都港区白金台の最正山覚林寺(清正公)に位牌。なおまた、東京都大田区の長栄山大国院本門寺(池上本門寺)に供養塔。奉斎神社は熊本市本丸鎮座の加藤神社。

清正の死後、家督は子の忠広が継いだが、寛永9年(1632年)、忠広は幕府の命により改易になった。理由は諸説あるが、加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だったためと警戒されたとも言われている。