戦国グッズ
佐々成政マグカップ
品番: 045
サイズ: 12.0cm×8.3cm×h7.5cm
重量: 260g
容量: 260cc
価格: 1,200円(税込)
佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代・安土桃山時代の武将。尾張国出身。父は佐々成宗(盛政とも)。通称内蔵助(くらのすけ)。陸奥守、侍従。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。
天正8年(1580年)、神保長住の助勢として対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中国平定に関わる。同年秋には佐々堤を築いている。天正9年(1581年)2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の長住失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城とした。
天正10年(1582年)本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった。しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。上洛した柴田勝家も羽柴秀吉に先を越され、同じように対峙していた毛利氏と和睦して中国大返しを成し遂げた秀吉とは明暗が分かれた。
明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、成政は柴田方につくが、賤ヶ岳の戦いには上杉軍への備えのため越中を動けず、本人は合戦に参加出来なかった。(しかし、叔父の佐々平左衛門に兵600を付けて援軍には出している)勝家の敗死後は、前田氏の寝返りや上杉家の圧迫もあり、成政は娘を人質に出し、剃髪する事で降伏。越中一国を安堵され矛を収めた。翌天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると3月頃の書状では秀吉方につく素振りをみせていたものの、夏頃になって成政は徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家と敵対して末森城の合戦が起こった。また越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。ところが秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退が窮まると、成政は家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。世に言う「さらさら越え」であった。しかし結局説得は功を奏せず、織田信雄や滝川一益にも説得を迫ったが、快い返事は得られず、壮挙は空しく失敗した。
翌・天正13年(1585年)、秀吉自ら越中征伐に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中国東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。
